木の国・吉野の物語
文:宮崎ゆかり
構成・写真:ABARERU.jp
FEATURE
奈良県・吉野

木のこと、吉野にまつわる豆知識など、知っていると面白い話を記したコラム集「吉野つれづれ」です。

神話の中の植林

林業の神様は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟・須佐之男命(すさのおのみこと)といわれます。その長男は五十猛命(いそたけるのみこと)で植林の神様、長女は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)は大工の神様、次女の柧津姫命(つまつひめのみこと)は樵(きこり)の神様とされています。
須佐之男命が子どもたちを連れて下界へ下った時、神様たちが住む高天原(たかまがはら)から持ってきた樹木の種子を、九州からはじめて全国に播き、山を造ったと神話に描かれています。須佐之男命の一家は植林に深い関わりがありました。日本では古代から植林の歴史があるともいわれるわけですね。
『日本書紀』には、須佐之男命が「杉と樟(くす)は浮宝*11(うきだから)にせよ、桧では宮殿をつくれ、槙(まき)は青人草*12(あおひとぐさ)の棺桶にせよ」と、樹木によって用途を指し示し、植林を教えたということです。

*11
浮宝:舟のこと。
*12
青人草:人民・国民のこと。
吉野宮と吉野離宮

国家が統一された4世紀頃は、吉野は応神天皇(おうじんてんのう)の遊興(ゆうきょう)の地であり、歌枕*13の地でもありました。飛鳥時代に吉野宮が置かれたのも、そういった背景があってのことでしょう。645年の大化の改新(たいかのかいしん)後は多くの大宮人*14(おおみやびと)が訪れています。和銅(わどう)年間(708〜714年)以降になると天武(てんむ)系王朝のゆかりの地として、聖武天皇(しょうむてんのう)もたびたび行幸(ぎょうこう)*15されたといわれます。
吉野離宮は奈良時代に造営された宮で、風光明媚(ふうこうめいび)な自然の中にあり「水の宮殿」とも呼ばれました。ここでは情景を楽しむ宴が催されていたそうです。
壬申(じんしん)の乱(672年)の前年、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)は天智天皇(てんちてんのう)の都・大津京から吉野へ逃れ、半年後に挙兵、吉野人の援助も得て勝利します。吉野は鉱物資源が豊富で財力があり、王権の守護兵のような役割をしていたと伝えられています。
天武天皇の後を継いだ妃の持統天皇(じとうてんのう)は、30回以上も吉野宮・吉野離宮に行幸されたとか。吉野を愛した夫・天武天皇の面影をそこに見ていたのかもしれませんね。

*13
歌枕:和歌用語。古典和歌にしばしば詠まれる諸国の名所のこと。
*14
大宮人:宮中に仕える人のこと。宮廷人。
*15
行幸:天皇・皇后などが外出すること。行く先が2カ所以上の場合は巡幸という。
南朝と吉野

南北朝時代のこと、吉野山の蔵王堂(ざおうどう)西にある台地には南朝の行宮*16(あんぐう)が設けられ、朝廷が置かれました。それは皇位復興をめざした後醍醐天皇にはじまり、57年間の朝廷でした。
後醍醐天皇は、それまでの院政を排除して天皇による政治を実現した天皇ですが、障害になった鎌倉幕府を倒そうと画策し、元弘(げんこう)の変(1331年)を起こしました。しかしその思惑は叶わず、戦いに破れて隠岐(おき)へ流されてしまいます。その後、諸国の尊皇の武士、楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)らによって鎌倉幕府は滅んでしまいました。かくして隠岐から都に戻った後醍醐天皇は、本来の目的を忘れてしまったのか政ごとを顧みず、僅か2年で足利尊氏(あしかがたかうじ)に下ることになります。
吉野で再起を図った後醍醐天皇でしたが、その想いは叶うことなく、ついに吉野が終焉(しゅうえん)の地となりました。後醍醐天皇の足跡は縁のあった吉野に今も数多く残されています。

*16
行宮:天皇行幸のときの仮宮。
修験道と吉野

修験道(しゅげんどう)というのは、日本古来の山岳信仰に神道や仏教などが混淆して成立したものです。修験道は山中に分け入り山岳修行によって心身を鍛錬する宗教で、役小角(えんのおづの)(役行者)(えんのぎょうじゃ)が開きました。
役小角は吉野山で蔵王権現(ざおうごんげん)を感得、その尊像を桜木に刻んで金峯山寺を開いたと伝えられています。1300年ほど前、飛鳥時代後期のことでした。
修験道では定まった経典がなく、大自然の音そのものを説教として受け止めるのだといいます。修験者たちは熊野・吉野を拠点にし、その間に連なる大峯山(おおみねさん)に入って修行をしました。現代に生きる修験者たちも大峯山で修行を行っています。その中でも大峯奥駈け修行が有名です。大変厳しい修行ですが、心身が蘇るといわれています。

吉野の桜

修験道の開祖・役小角が桜木に蔵王権現を刻んで金峯山寺(きんぷせんじ)を開いて以後、桜は御神木として献木され続けてきました。その数は30000本を超えるといい、桜の大半は日本古来種の山桜です。吉野の桜は信仰の象徴として大切にされてきたのです。
山裾から開花がはじまり、下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本へと咲き上っていきます。一目千本、まさしく全山が桜色に包まれる絶景は、見る者の心を惹きつけずにはおきません。
春霞(はるがすみ)のようにうららかに咲く桜、風花(かざはな)が舞うように散りゆく桜…。咲くも散るも日本人の心を震わせるのは、今も昔も同じです。
吉野はかつて貴族たち都人の信仰の山であり、憧れの地でもありました。吉野を思い、桜を夢見て詠まれた歌が残されています。
また太閤秀吉が吉野で大がかりな花見の宴を催してからは、武士、庶民にいたるまで吉野の桜を知ることとなりました。
漂白の歌人・西行も吉野の桜に魅せられたひとり、山中の奥に庵を結び、多くの歌を詠んでいます。
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月*17(もちづき)のころ」:西行

*17
望月:陰暦十五夜の月。満月の異称でもある。
豊臣秀吉と吉野

文禄(ぶんろく)3年(1594年)、あまりにも有名な太閤豊臣秀吉の花見、それはそれは大がかりなものでした。この時には吉野山吉水院(よしみずいん)(現:吉水神社)が本陣として使われましたが、一部を除いてこの花見のために新築されたのだそうです。太閤秀吉の権力が絶頂であったことを示すような歌が詠まれました。「年月をこころにかけし吉野山 花のさかりを今日みつるかな」
桜だけではなく太閤秀吉は吉野と大きな関わりがありました。天正(てんしょう)年間(1573〜1591年)に秀吉は吉野地方を領有し、天然林の木材を搬出させました。大坂城や伏見城などの城郭、方広寺(ほうこうじ)など寺社仏閣の造営に多くの用材が必要だったのです。これがきっかけとなって、材木商が大坂に拠点を構え、木材市場が開設されることになります。良質な吉野材が世に知れわたるきっかけを、太閤秀吉がもたらしたのでした。

樽と廻船

吉野から搬出された桶・樽材は紀ノ川(きのかわ)(吉野川)を下って和歌山の港に集められていました。近世に発達した近畿の酒造業による需要が高まる一方だった江戸時代のことです。
近畿地方で造られた酒は、吉野杉の樽に詰めて一大消費地の江戸へ向けて運ばれます。その時に活躍したのが樽廻船*18(たるかいせん)でした。様々な商品を積み合う菱垣廻船*19(ひがきかいせん)から、酒樽のみを積荷にした樽廻船へと分化したのです。そのことによって菱垣廻船より荷積みの時間や航行日数が格段に短くなったのでした。樽廻船の出現は菱垣廻船では約1ヶ月かかっていたものが樽廻船では2週間、早ければ4日間という画期的な効率化を生み出したのです。
廻船で運ぶということは揺れが激しく、商品の品質管理は大変なものでしたが、緻密(ちみつ)で堅牢(けんろう)な吉野杉の樽が活躍したのです。醸造業の発展とともに吉野の林業は着実に成長を遂げていきました。
江戸に送られた酒の空樽は、その後空樽を専門に扱う問屋によって集荷され、醤油・味噌醸造や漬物樽として利用されました。江戸周辺の醸造業では吉野杉のような良質の桶や樽が地元で調達できず、近畿から運ばれてくる吉野杉の空樽がとても貴重だったといいます。
近畿の醸造業や通運、関東圏の醸造業発展のかげには、吉野杉があったのでした。

*18
樽廻船:上方〜江戸間直行の江戸時代の貨物輸送船。上方の酒荷を専門に江戸へ輸送した。
*19
菱垣廻船:日持ちする物品を途中の港に寄りながら運んだ江戸時代の貨物船。

次項では、「木の家に住む」ことと端材の利用から生まれた「木の箸」についてです。


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